人間関係

その時々につき合う人は、その時の自分が引き寄せている。
そしてその人間関係は、その時の生活環境を大きく左右する。

最初の人間関係は家族である。
家族との関係は支配構造だった。

くってかかる
親という絶対権力者と、力なき服従者である僕。
僕は常に要求される側で命令される側。
要求に従えば報酬が与えられ、拒否すれば苦痛が与えられる。
この関係は僕が成人した後も変化すること無く、ずっと継続した。

同じ言葉でも、意味が違う
職場での人間関係もほとんど変わらない。
会社組織は役職によるヒエラルキー構造で、会社や上司の命令には基本的に従わなければならない。それが雇用契約というものだ。

家族関係も職場関係も共通して言えるのは、自分が生きていく為に必要なものを相手が持っている、ということ。相手はそれらを提供する代わりに、無条件にこちらに要求を突きつけてくる。相手がこちらの生殺与奪の権利を握っていて、相手の気持ち一つで生存が脅かされるという恐怖が根底にある関係。関係が出来た最初から対等性が全くないし、どれだけ年数が経っても変化もしない。

実際に成長して生きていく為に相手に依存しなくても良くなっていても、心理的に依存させられていて、結局上下関係が覆ることは無い。
関係が長期的になればなるほど、飼い馴らされていく。

それが嫌で、新たな関係性を作っていった。

はずだった・・・

ところが、僕が救いたいと思い関わった人達は、僕に父親の影を見た。
僕は意図せず、父親と同じことをしていたのだ。

本来の状態で生きないことを許さない。本当の自分で生きることこそが唯一のあなたの幸せ。そう言って、執拗に相手に魂に沿って生きるように仕向けた。そうすることが相手の望みであり、一切手を緩めてはいけないと思っていた。

虐待を受けた子供が親になって我が子に対し虐待をしてしまう、いわゆる虐待の連鎖だ。
実際にそんなことがあり得るのかと、虐待する親たちの話をいぶかしげに聞いていたが、実際に自分がその立場になってみたら、それは簡単に起きうるのだということを実感した。

虐待をしている側は、それが虐待だとはこれっぽっちも思っていない。むしろその逆で、これ以上無いくらいの愛情表現なのだ。これだけの愛情を与えられるのは自分以外には居ないだろうと言い切れるくらい、惜しみなく与えているという認識なのだ。
だが、愛情の表現方法があまりにも偏っている、というかそれしか知らないので、結果的には虐待になってしまうのだ。なぜなら、人は自分が受けとったものしか知らないからである。

その時々につき合う人は、その時の自分が引き寄せている。

つまり、自分が嫌だと思う人間関係の定義を持ったまま、その現実を変えようとしても、嫌な人間関係からは逃れられないのだ。状況を変え、立場を変えても、常につきまとう。

結局は自己肯定感が低いがために、それをなんとか補おうとして他者との関係性がいびつな形になるのだ。

自分は劣った存在だから、他者に従わなければならない。
自分は劣った存在だから、他者よりも優れていることを証明しなければならない。
自分は劣った存在だから、そのことを他者に悟られないようにしなければならない。
自分は劣った存在だから、自分より劣った存在を支配しなければならない。

他者との関係性を変えることで自分の劣等感を払拭しようとしていたわけだが、どれだけ他者が自分を認めても、自分が自分を認めていなければ、絶対に対等な関係性は築けない。

自分との関係性が、そのまま他者との関係に現れる。
目に見える人間関係を変えるには、自分自身との関係を変えなければならないのだ。

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