信じる

僕は人を信じていた。人の言うことを素直に信じていた。発言と本心が違うということをあまり想定していなかった。だが、人の善性を疑うこと無く言われるがまままに生きて、どんどん辛い目にあった。

人の言うことを信じては、こっぴどく裏切られた。人は簡単に嘘をつく。それでも人を信じるという根本が変わることはなかった。人が自分を利用しているとは思いもしなかったし、裏で違うことを言われているとも思わなかった。

盲目的に人を信じる癖があった。

30を過ぎてから、裏切られるエピソードがかなりキツくなり、徐々に人間不信になっていった。結局、信じては裏切られ、信じては裏切られを繰り返して、遂には何もかも信じられなくなった。

人の言葉の裏を読むようになった。人は本心を隠して近づいてくる。常に警戒を怠ってはいけない。気を許すと、そこに人はつけ込んでくる。人間は嘘つきばかりだ。本心を隠して、思ってもいないことを平気で言う。要するに、言葉巧みに僕を利用して、得たいものを得るのだ。その目的以外に、人は話しかけたりしない。

それでも簡単に人を信用する自分を深く呪った。自分には信じて良いことと悪いことの区別がつかない。その判断能力が無いのだ。自分の直感なんぞ、全く信用ならなくなった。

とことん自分自身のことも信じられなくなった。信用出来る他人も居ない。この世で信じられるものは何一つ無くなった。
真っ暗闇で何も見えず、前も後ろも上も下もわからない世界で一人彷徨っている感覚だった。

そんなときに現れたのが彼女だった。
彼女は僕がどれだけめちゃくちゃな態度を取ろうが、終始一貫して僕を信じた。どのような僕であっても受け容れてくれた。それは、僕にかつて味わったことの無い安堵感をもたらした。

だが、人間不信に取り憑かれていた僕は、常に裏切りのショックに心が壊れてしまわないようなプログラムを無意識に作って走らせていた。

「そんなことを言って、本当は裏で僕のことを利用しているんだろう!?」
「どうせ今に僕を見限って、呆れて去っていくんだよ。そうに違いない!」
「なぜそこまでして僕に良くしてくれるんだ?本当は何が目的なんだ!?」

この世でたった一人の自分を受け容れてくれる人に対して、あからさまな攻撃を執拗に繰り返した。

思えば、これは僕の心の弱さがさせていたことだった。
どれだけむちゃくちゃなことをしても見捨てられないかどうかを無意識に試していたのではないか。
彼女の言っている言葉が真実なのかどうかがわからなかった。
本当に見捨てられることもダメだし、かといって優しくされたらその真意を疑ってくってかかる。

存在不安を抱えた人は、ここまで矛盾した言動をしてしまうものなのだ。

「何をしてもいい。何を言ってもいい。それが本当に自分の望んでいることなら好きにすればいい。あなたはどうしたいの?あなたには自分の人生を選択する力がある。」

そんなことを言われても信じられなかった。

「あなたが私の言葉を信じないのであればそれでも構わない。あなたが自分のことをどれだけ信じられなくても関係無い。でも、私は私が信じていることを信じている。」

なんだ、それは!?

この人は、自分のことを絶対的に信じているのだ。自分が信じると決めたことを、相手が何と言おうと信じると決めているのだ。
なんという意志の強さ。なんという自己肯定感。なんという覚悟。
その立ち振る舞いに、神々しさすら感じられた。
こんな人、今まで生きてきて誰一人として居なかった。
そして、これほどの人に信頼されているという、僕のちっぽけな自己不信などで揺るぐことの無い圧倒的事実。頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

僕は彼女からの信頼に甘えて依存していたことを認めざるを得なかった。そして、僕には何が何でも自己不信を克服し、自分のことを心から信頼していくしか他に生きる道が無いのだと悟った。。

完全に失ってしまった、自分自身への信頼を強めていくプロセスを歩もう。
これは自分を再生させるプロセスとなるはずだ。
人生の大いなる方向転換点が、まさにここだった。

ターニングポイント