コミュニケーション

以前の人間関係においては、コミュニケーションは「欲求を認めさせる手段」だった。発言は「相手に対する要求」。聞く側はそれを「指示」や「命令」ととる。何を要求しているのかが問題なのであって、お互いの人格や感情、気持ちといった部分は顧みられない。

ほぼ一方的に相手の要求を飲み続けてきた僕は、まず「NO」が言えなかった。それは依存関係からくる被支配側として長らく生きてきたからだろう。これは会社員時代に最も顕著に現れた。自分の気持ちとか思いとか体調とか、全然関係なく、指示されたら「YES」である。
そして、ストレートに要求を相手に伝えること自体が非常に苦手だった。相手の要求を断ることも困難な上に、さらに自分の要求を相手に伝えるというのは、至難の業であった。

その反動で、こちらが立場上優位にある時は、相手の意見を聞くことは無く、一方的にこちらの要求を押し通すことが多く見られた。
結局、自分が知り得る方法でしか人は生きられないものなのだ。

彼女と出逢って以降、僕のコミュニケーションは劇的に変わった。彼女は常に自分の意見を伝えてくると同時に「あなたはどうしたいの?」と聞いてくる。最初は僕の意見を聞いてくる意図がわからず非常に困惑した。なぜこちらの意見を聞いてくるのか。しかも彼女には確固たる意見がある。それを押し通せばいいではないか。

次第に、これがフラット(対等)なコミュニケーションなのだとわかってきた。相手と自分の価値観や意見の違いを認め、その上でお互いの意思疎通を図る、という、言われてみれば実に普通のことをやっていたのだ。だが、僕が生きてきた世界では、このような対等なコミュニケーションが行われてはいなかった。

相手の言葉に耳を傾け、こちらの意見もしっかり言う。感じた感情も伝え合い、お互いをより深く理解し合う。そこで初めてコミュニケーションが成立するのだ。
今までのそれはコミュニケーションとはお世辞にも言えない代物だったのだと痛切に気づかされたのだった。

このコミュニケーションを繰り返すうち、僕は自分の意見に自然と自信が持てるようになってきた。
相手の意見を全面的に受け容れなくても、必死になって自分の意見を押し通さなくても大丈夫なのだと思えるようになった。相手には相手の言い分があり、僕には僕の言い分がある。それをお互いが知った上で、自分がどう感じるのか、どう行動するのかが大事なのだ。

コミュニケーションの変化はこれまでの人間関係をも変えていった。生涯修復不可能とさえ思えた親子関係は、お互いの意見を尊重し笑いながら会話できるまで変化した。価値観や生き方、考え方の溝が埋まることは無いが、それでもいいのだと思えた。少なくとも、僕は親の生き方を全否定することで自分の生き方を肯定させようとはしなくなった。自分の生き方も尊重し相手の生き方も尊重する。親子であれど違ってよいのだ。

自分を認めるとは、同時に他人も認めることなのだ。
これは僕に、未だかつて感じたことの無い安心と自由を感じさせるものとなった。

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